文面はWikipedia様より引用
勝小吉
かつ こきち。
江戸時代の武士・旗本。左衛門太郎惟寅(これとら)と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入ったのちは小吉。隠居後は夢酔(むすい)。
酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。
長男は勝海舟。剣客男谷信友は兄の子(婿養子)。また、島田虎之助とは、海舟が柔道の兄弟弟子(のちに剣の師匠)だった縁から親交があった。
天保14年(1843年)、中風発作の後遺症もあったため鶯谷に庵を結び、以前より静かな生活となる。『平子龍先生遺事』と『夢酔独言』を書く。『夢酔独言』は子孫に自分のようにはなるなと伝える目的で記したもので、「けして俺のまねをするな」と書いている。
エピソード
* 5歳の時に喧嘩をして、相手を石で殴り口を切った。その後父親に下駄で頭を殴られた。
* 7歳の頃、2・30人を相手に1人で喧嘩したが敵わず、悔しいので切腹しようと思って脇差を抜いたが近くにいた米屋に止められた。
* 柔道の仲間に帯で縛られて天井につるされた。悔しいので皆が物を食べようとするとき上から小便をばらまいた。
* 小吉は生涯無役だったが、息子の麟太郎は将軍徳川家慶の五男初之丞の御学友に取り立てられた。小吉もこれを麟太郎の出世の端緒と期待していたようだが、初之丞は一橋家を継ぐとまもなく亡くなった。
* 島田虎之助を訪問したとき、不行跡の噂を聞いていた虎之助は小吉をあまり良く思っていなかったらしく、嫌味を言ってきた。小吉はかまわず吉原に連れ出して豪遊し、虎之助の度肝を抜いた。
* 地主の家で金が入用になったので、その知行地へ行って金策をした。村人が金を出し渋っているので「金策ができなければ面目がない。切腹する」と村人を脅し、とうとう金を出させた。首桶まで江戸から持参してみせたほどだった。
* ある女に惚れてそのことを女房に言うと、女房は「その女をもらってあげる」と言った。自害してももらってあげるというので、小吉は女房に短刀を渡して遊びに出た。会った知人にそのことを話したら「女房に情をかけてやれ」と意見をされ、さすがに反省して家に帰った。
* 甥の男谷信友は幕末の江戸において力の斎藤・位の桃井・技の千葉と称された三代道場をもってしても歯が立たないといわれた達人だが、小吉は片手で捻ったという。新門辰五郎曰く「喧嘩で右に出る者なし」。ある意味、幕末最強の男と言える。
* 『夢酔独言』では、どうやって乞食をして歩いたかまで詳しく語っている。しかし仮にも武士の子が2度も出奔し本当に箱根の関所を抜けられるのかなど疑問があり、いくらか誇張も含まれていると考えられている。しかし「俺の真似をするな」と言いつつもやりたい放題の半生を子供たちにおおっぴらに書き残し、それがしゃべり言葉のように軽快に書かれていて、八方破れな小吉本人の声が聞こえるかのような面白い作品となっている。
瓠洲感想
北野武さんの菊次郎父さんの様な破天荒ぶりですね。でも、此の人の文章はかなり面白いですよ。ワクワクします。ツッコミながら読めます。
